何故かマルタへ島流し 

男大学院生が七ヶ月マルタに引きこもる話 一応留学

マルタと一切関係ありません BL俳句が受ける無意味な批判

マルタ留学に関する当ブログで、こんなことを書くのは愚かしいことだとは思うけれど、まあ誰かに対して責任のあるブログでもないしいいかなと。

 

きっかけは週刊俳句の松本てふこさんが書いた記事に対するコメント。

週刊俳句 Haiku Weekly: 『オルガン』とBL俳句 松本てふこ

 

 BL俳句にあまり開拓されていない鉱脈があるのは確かと思います。
それは恋愛、性愛、耽美といった性質のものなのでしょうが、そうすると”BL"という呼称に困難が生じます。
いうまでもなくBLとはBoys Loveであり、男性青少年の同性愛をネタとして消費するものです。
ネタではない?しかしこの文章にしても、現実の同性愛者のおかれている社会的困難について一顧だにされていないように読めます。
同好の士の間に留まっているかぎりは大して問題にはなりませんが、現実の同性愛のおかれている状況を考えれば、軽々しくネタにできるものではありません。
ですから俳句や短歌といったオープンな場では批判が出るのは無理からぬことでしょう。しかしより広く恋愛、性愛、耽美としてとらえなおせば、それは他者の消費ではなく普遍的な詩性となりえます。
せっかくの鉱脈を大事にするためにも、BL俳句はもっと大人になるべきなのです。

 

社会的困難云々に一顧だにしていないように感じるとコメントされている。さらにはネタとして消費されているとも。そのこと自体にも言いたいことはあるが、仮にそうだとして何の問題があるのか?

 

僕は少々BL俳句に関わらせてもらっている男である。 

僕が同性愛者で、差別や制度等の様々な社会的困難に合っているとして、その上で自分がしてみたい理想の恋愛や状況を俳句として詠む。

この時に一体何の問題があるのだろう。

 

「俳句という文学において理想のみを詠むのは常に認められない」というのなら、それはもうこの方の俳句観だ。僕は何も言わない。

 

「当事者であっても社会的困難が存在する以上、社会的困難に対しては常に考えるべきだし、容易に扱うべきではない」というのであれば、それは差別主義者のそれではないか? 異性愛の恋愛に関しては実際の社会的困難など触れずに楽しむ作品だって大量にあるじゃないか。マイノリティだから社会的困難にあっている人達は、マジョリティの人達のような楽しみ方をしてはいけないというのか。

 

「当事者である同性愛者のみが、社会的困難などを考える事なく自由に男性同士の恋愛に関して俳句を詠むことができる」と考えているのならば、それはもう馬鹿げている。同性愛者が異性愛に関して自由に作品を作ることも禁止するのだろうか? それともマイノリティにだけ常に特権を与えろとでも言いたいのだろうか。

 

また、我々が真剣に同性愛者の社会的困難に対して考えていたとして、それを逐一俳句に反映させる義務など、当然無い。

僕は俳句だろうが小説だろうが短歌だろうが、理想だけを表現したい時はそうするし、それは異性愛だろうが同性愛だろうがファンタジーだろうがSFだろうが近親相姦だろうが同じことである。

 

そもそもが「創作」なのだ。我々が同性愛者に対して差別的な意見を俳句で表明しているならばともかく、ただ「男性同士の恋愛」をテーマ、あるいはモチーフにしているだけの話である。

 

世界での同性愛者はの割合は1割程度と言われる。日本において、左利きの割合とほぼ同じであり、75歳以上の人の割合とほぼ同じであり、東京に住む人の割合より少し少ない程度である。

 

主人公が左利きの作品も、75歳以上の人を扱った作品も、東京に住む人を扱った作品も当然のようにあるだろう。東京の例は卑怯に思われるかもしれないが、現実の日本を舞台にした作品で、舞台が東京でない作品が9割ということはないだろう。

要するに、全体の1割を占める何かを創作において表現することはなんら特殊なことではないし、当事者でなくても表現するのだ。左利きでない人間が左利きのピッチャーを主人公に漫画を作ったってもちろん良い。そして当然、わざわざ社会的困難に関して一々触れる必要はないのだ。右利き用のハサミが左利きの主人公には使いにくいと、必ず描写があるわけではない。

 

 

断っておくが、僕はここで自分のセクシャリティが同性愛だとも異性愛だともわざわざ表明しない。それは酷く個人的なことだ。

そしてこれはBL俳句に関する全ての人に関してだが、そこに同性愛者がいるというのは、当然あり得る話だ。ただ、僕は同性愛者の方がいるともいないとも知らないし、わざわざ聞くこともない。そんな個人の事情をいちいち聞く必要はないし、それは本質的に作品と関係がないことだ。

 

差別、偏見がないのであれば、同性愛の時だけは特別な心構えが必要になるという発想はでないのではないか。「大人になるべき」と表現されているが、同性愛は別に特別でもないし、もちろん異常では決してないのだ。特別扱いする必要も、無駄に距離を取る必要もない。その上で、同性愛の美しさを詠みたい人は詠むし、社会的困難に焦点を当てたい人は当てれば良い。ただ、差別的な表現になっていないか、そこさえ気をつけたなら、あとはもう異性愛を扱う時と、何の違いもいらないだろう。